社交性について 優しさの種類 2022/04/03

今日はおじいちゃんと仕事だった。

おじいちゃんは社交性が高い。小さい子連れの親子が来たら必ず子供に話しかける。

「ぼくなんさい? どこから来たの?」みたいな感じで。俺は子供に猫なで声を出しながら話しかけるという行為は出来ない。

おじいちゃんにあって私にない物。それは社交性である。

世間的にはこれが微笑ましい光景と言われているらしい。

逆に私にあってそのジジイにないもの。それは「今自分が話し掛けたら嫌な気持ちになるんじゃないか」という視点である。

ジジイが話しかけている時、私は子供と親の顔を見る。

子供にもよるが見るからに嫌がる子供もいる。

親は「ありがとうございます〜」と言いながら笑顔を浮かべている。だが私には浮かんだ笑顔が作り笑いにしか見えないのだ。よって私は子供には話しかけない。

私がまだ山形に住んていた頃、よく母親の会社の後輩の女性が家に遊びに来ていた。

ある時その女性が出産したらしく、その子供をうちの母親に見せに来た。

「是非ノーカ君も抱っこしてみて」と言われたが私は「いや僕なんてそんなそんな…」と言って抱っこしなかった。

その女性が帰った後なぜ抱っこしなかったかを母に詰められた。

「優しさには積極的優しさと消極的優しさの2つがある。世の中は積極的優しさの方ばかりを優しさだと勘違いしている。俺は消極的優しさを見せただけだ」と私は答えた。

詳しく解説すると、積極的優しさとは自分が行動することで優しさを見せる行為のことである。

この場合で言うと赤ちゃんを抱っこして、「あなたの産んだ子供は皆に愛されていますよ」という事を産んだ母親に見せてあげるという行為である。

私がした消極的優しさとは抱っこする事によって、例えば落っことして怪我をさせてしまったり、今の自分が持っている菌が付着したりして病気になってしまうなどという行為を防ぐ、もしくは口では「抱っこして」と言っているが、私の母親に気を使って言っているだけで、本当は私に子を抱っこされる事など嫌かもしれないという可能性を考慮して赤ちゃんに触れないという物。

つまり何もしないという優しさである。

もっとわかりやすく言うと、子供が転んで泣いている時、「大丈夫?立てる?」というのが積極的優しさである。

その子が自力で立てるかどうかをじっと見守るこれが消極的優しさである。

これを母親に詳しく説明したが理解してもらえず、挙句の果てに「お前は卑屈すぎる そんなんだから大学を辞めるんだ」と言われた。

私は泣いた。ワンワン泣いた。ワンワンを通り越してキーキー泣いた。

どれくらいキーキーかと言うとねむこをディスっている時の加瀬ちゃんくらいキーキー言っていた。

まぁなんやかんやで、何が言いたいのかと言うと社交性が高いというのはつまり「積極的優しさの比率が高く、消極的優しさの比率が低い」という事であり、人見知りで社交性が低いというのは「積極的優しさの比率が低く、消極的優しさの比率が高い」という事である。そこに優劣は無いのだ。

言いたいことが少しグチャグチャになってしまった。

まぁそんな感じです ではまた明日。