陽性 8/23

私は死ぬかもしれない。 半分冗談で半分本気である。遺書のような物をブログに残しておこうと思う。

私は1998年12月28日 森ノーカ家の長男として産まれた。

幼少期の私は体が弱く内気な少年であった。幼稚園では一人輪に入れず、母親が心配して先生に相談したりしていたらしい。そんな自分を変えようと、幼稚園の最後の劇で、主役に立候補した。だがもう一人立候補した子に多数決で負けてしまった。

結局私は「蛇の先生に相談しよう!」というセリフ一言だけの脇役に回されてしまった。

小学生になってもその性格は変わらず、休み時間は図書室で毎日本を読んでいた。

かといって別に本が好きでも無かった。ただ何もしないよりマシなだけだった。

中学生になって少しずつ友達が出来てきた。自分は元々面白いことを言うのが好きなタイプだったのだなと気づいた。その後高専に入学した。鶴岡の高専は全寮制であった。友達と毎日修学旅行のように過ごせると、期待に夢を膨らませていた。だが実際は小学生の頃の図書室通いに戻ってしまった。だが学校の敷地内に寮があったので、なんとか通い続ける事ができた。その後大学生になった。

大学は実家からでも通える距離だったのだが、親にお願いをして一人暮らしをさせて貰った。大学で出来た彼女や友達と朝まで部屋で飲んだり食べたりする生活に憧れを持っていた。だが実際はそんな事は一度もなかった。キレイでこじんまりとした部屋に、ただゴミ袋が日に日に積み重なっていくだけだった。そんな日を続けて結局退学してしまった。大学を辞める日、親から高級最中の袋を渡され「迷惑かけた教授に渡してこい」と言われた。だが教授に合わせる顔が無くて、大学の研究室にあった冷蔵庫に勝手に最中を置き、そのまま大学を出た。

今でもその最中は冷蔵庫の中にあるのだろうか。あるなら是非捨てて欲しい。

その後はあてもなくバイトをしていた。ただひたすらにバイトをして、寝るだけの生活であった。唯一の趣味はニコ生であった。

だから加瀬ちゃんが同居人を募集した時は、いの一番に手を上げた。元々もう一人合わせて四人でシェアハウスをする予定だったが、直前でもう一人の子の親からNGが出てしまい、夫婦に私一人が加わるという奇妙な構図になってしまった。

そしてなんやかんやあってウンコ顔と呼ばれるようになり、頭を六針縫い、コロナウイルス陽性になって、今に至る。

コロナの感染経路はわからない。だが現在怪しいと思うのは、三日前に愛知から来たリスナーか、二日前に行ったアイドルフェスだろう。どちらでも別に、自分の認識の甘さと言う他無い。

話は変わるが

アイドルのフェスを見ながら私は思った。私はアイドルになりたいのかもしれない。

大勢の客の前で弾ける笑顔で踊り、可愛い声で歌い、熱狂の渦に包み込む。

前髪を作り、ツインテールを上で結び、多感な十代の揺れ動く恋心を歌いたいのではないか?

こんなことになるならそう生きれば良かった。誰にバカにされようと構わないじゃないか。アイドルとは他称するものでは無く、自称するものではないのだろうか。胸を突き刺すようなBPMと大声を上げるオタクに囲まれながら、そんなことを考えていた。

9月から正社員として会社に勤める。その会社に「すいませんコロナウイルス陽性になりました」というのはとてもキツい。

なぜなら「すいません頭を六針縫って一ヶ月入社遅れます」ともう言っている。

いつになったら来んねんこいつと思われるに決まっている。幻のシックスマンと呼ばれてしまうかもしれない。

一度全てを無にして、生き方を改めなければならない時に来ているのだろう。今年で24歳。もう遊んでて良い年ではない。来年にはアラサーである。

もう一度、産湯に浸かっていたあの頃から人生を考えなおさなければならない。

誰かにこの思いを相談したい。誰かにこの思いをきいてほしい。

私は無意識にある言葉を呟いていた。

「…蛇の先生に…相談しよう…」

ではさようなら 今までありがとうございました。