サム 12月18日

朝からワクワクしていた。今日は待ちに待ったM-1の日である。

私は一年で一番テレビを集中して見るのがM-1グランプリの放送の日である。

M-1グランプリが私の生きている理由の一つになっているといっても過言ではない

勿論昼間の敗者復活戦から全部見る。M-1の最中にお腹が減って集中出来ないと困るので、出前館でピザを頼んだ。本当は出前など頼む余裕はない。だが今日は特別である。

20時頃、集中してM-1を見ていると、加瀬ちゃんが帰って来た。サムを連れて。

サムとは加瀬ちゃんの姪っ子で、東京で独り暮らしをしている。

サムを見て私は驚いた。私の知っているサムはいつも学校のジャージに身を包み、真っ黒い犬を抱き抱えた田舎の子供だった

。しかしそこにいたのは化粧をバッチリ決めた、白いアウターに身を包んだ都会人だった。大変身を遂げたサムを見て、私の脳内には太田裕美木綿のハンカチーフが流れた。都会の絵の具に染まるとはこういう事なのだろうか。

だがそんなサムの大変身も、私にとっては漫才と漫才の間の繋ぎ程度であった。それくらい私にとってのM-1は大きい。

サムと加瀬ちゃんが話している間も私はM-1に集中し続けた。

加瀬ちゃんは「風呂でも入ってきたら?」とサムに告げた。

サムは「うん」と返事をすると羽織っていたアウターを脱いだ。

次の瞬間、私は雷に撃たれたような衝撃に襲われた。

サムの腹部に布がないのだ。服の最後尾が胸の下辺りで終わっている。まるで映画のワンシーンの、子供が何かの薬によっていきなり体を大きくされ、元々着ていた服が丈足らずになってしまった時のようであった。これは私が見ている夢の中なのだろうか。

サムはそのまま風呂場へと消えていった。私は呆然とその場に崩れ落ちた。

先程まであれだけ集中して見ていた漫才が、赤の他人の他愛の無い立ち話のようにしか聞こえない。

加瀬ちゃんに「なにあの格好?」と私は尋ねた。加瀬ちゃんは眉一つ動かさず「東京では普通なんじゃない?」と答えた。

あの格好が東京では普通なのだろうか。私にはそうは思えない。

サムが風呂から上がってきたら「そんな格好はやめなさい」と説教しようかと思った。だが少し考える。私にそんな事を言う権利はあるのだろうか。私は彼女の父親ではない。

説教した相手が何か間違いを起こした時に、その間違いの責任を一緒に追う覚悟のある人間しか人に説教してはいけない。そんな持論を私は持っている。私はサムが何か間違いを犯した時に、共に責任を追うつもりはない。

それに彼女の感覚が間違っていて、自分が正しいと盲信するのもどうなのだろうか。

常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである。そうアインシュタインは言った。

イスラム教の女性は長袖を着て顔にスカーフを巻き、肌は自身と婚約している男性にしか見せないという。

アフリカのマサイ族では、男性の来客があった際、妻に夜の相手をさせるという。

常識や感覚は時、所、で千差万別に変わっていく。

人間は産まれてきた時は真っ白なキャンバスである。そこに環境という絵の具が色をつけていく。

田舎という環境は薄めた水彩絵具のように淡い。そこには優しさや細かな変化が詰まっている。だが時としてその淡さゆえに都会の派手できらびやかな絵の具に塗りつぶされてしまう。

テレビの中では優勝した二人が涙を流して喜んでいる。優勝したコンビは芸歴14年目らしい

彼らの14年の苦労続きの人生という黒色の水彩画を、優勝という金色の絵の具が塗りつぶした瞬間なのだろうか。

サムにあって私にないもの それはなんなのだろうか。そんなことを考えた